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  宗派:曹洞宗(そうとうしゅう)
  名称:玉龍山 徳常寺(ぎょくりゅうざん とくじょうじ)
  住所:千葉県君津市上湯江980
  電話:0439−55−0786(FAX兼用)
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 〜貞元村上湯江にあり玉龍山と號す。境内百参拾九坪、西南に丘陵を繞らし北方には雑樹鬱蒼として茂り風致佳にして高燥の地なり。本尊は阿彌陀如來にして丈四尺餘、僧源信の作と云ふ。境内に藥師堂あり、藥師佛を安置す。丈壹尺、同じく源信の作と傳ふ。宗派は曹洞宗にして最勝福寺の末寺なり。天正八年の田地畑道改帳に本寺の名を載す。傳へ云ふ、慶長十一年再興、元和六年七月十二日、中興開山を武準昌藝とす。寳永五年二月、凉山久清再建すと。〜

 上記のように現存する資料の一番古い記録によると、『天正8年(1580)の公文書にこの寺の名が載っている』と記されており、この文面から推測すると徳常寺は1580年よりも前から存在していたと思われますが、残念ながら詳しい資料が残っていません。

 その後も荒廃と再興を繰り返したようですが、明治14(1881)2月、大本山永平寺六十世貫首である臥雲童龍大和尚を新たなご開山さまとして法地開闢しました。しかし、臥雲童龍大和尚は明治3年(1870)に既に遷化他界されているので、再興の実質的な功労者である二世梅雪凌淳大和尚が、ご自分が開山として名を記す事を謙遜され、師匠である臥雲童龍大和尚を勧請開山とされたのではないかと思われます。徳常寺に現在残っている古い文書のほとんどは、この梅雪凌淳大和尚によって記された物です。

 また、文政12(1829)に新添された本堂の大磬には、歴代住職の記録には記載されていない「翠巖」という住職の名と共に「醫王山徳常寺」と刻まれており、現在の山号である「玉龍山」は明治の法地開闢後から使用されたようです。これは、臥雲童龍、梅雪凌淳、両大和尚の出身地である鹿児島にかつて在った名刹「玉龍山 福昌寺」(明治初期に起きた廃仏毀釈により明治2年(1869)に廃寺の山号を頂戴したのではないかと思われます。




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中興開山 武準昌藝大和尚君津市新御堂 最勝福寺三世
  二世 凉山久清 ── 三世 風外嶺順 ── 四世 外林嶺雲 ──
   五世 悟岑察道 ── 六世 白峯虎珊 ── 七世 大雄千丈 ──
    八世 寛利仙明 ── 九世 密仙快明 ── 十世 古岸元壽 ──

法地開闢 勧請開山 臥雲童龍大和尚大本山永平寺六十世
  二世 梅雪凌淳 ── 三世 如成 ── 四世 別法単傳 ── 五世 正準玉應 ──
   六世 泰巖光亮 ── 七世 徹巖利行
現住職




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 …夫れ三宝とは如何。曰く、帰依仏・帰依法・帰依僧なり。右三宝に依るが故に仏祖の伝灯も滋煽なり。
そもそも当山は、元来平僧地にして檀越も亦少なりき。然るに予、住職以来日夜焦心して、終に明治十四年二月二十五日、永平六十世勅特賜大晃明覚大禅師 臥雲童龍大和尚を勧請し、茲に法地開闢するの栄を得たり。随って檀越も忽ち三宝に帰依せらしや。本牒に記する処の諸氏、挙げて我が寺門に帰し、檀那たるを得んこと三宝の徳なる哉三宝の徳なる哉。依って後来其の住職たる者、能く任を三宝に尽くし檀信帰依を計り、須く結果自然の秋を得べし。後昆、其れ之を勉めて忽ゆるがせにする莫れ。…




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 …因に記す。当山従来より盂蘭盆会なし。予、茲に明治十四年二月二十五日を以て両本山より法地起立の免牘を拝戴せし以来、水陸法会を修せんことを願ふとも、自力の及ばざるより助力を十方の檀信に乞い、其の喜捨するところの浄財を年々歳々積んで資本となし、其の利子を以て永代大施餓鬼を修行し、勤めて怠慢なからしめんとす。伏して願わくは、爾来有志諸氏、浄財の多少を論ぜず、此処に記する処の例に傚い続々喜捨あらんことを希望す。…



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曹洞宗 玉龍山 徳常寺
住所:〒299-1138
千葉県君津市上湯江980
電話:0439−55−0786

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